折れない、気にならない、ダイヤモンドメンタルの作り方。
1万件ぐらい叩かれたおっさんが、それでも平気で人前に出続けている理由。
僕は、他人の目がほとんど気になりません。
こう書くと、少し嫌なやつに見えるかもしれません。
でも、本当です。
陰口を言われても、批判されても、変な目で見られても、そこまで心を持っていかれません。
もちろん、何も感じないわけではありません。
僕も人間です。
しかも、わりと泣き虫です。
映画でも泣くし、人の人生の話でも泣くし、自分で自分の話をして勝手に泣きそうになる時もあります。
情緒はあります。
たぶん、かなりあります。
ただ、他人の評価で行動が止まることは、ほとんどなくなりました。
昔は違いました。
子どもの頃は臆病でした。
泣き虫でした。
今でも泣き虫ですが、昔はもっとそのまま泣き虫でした。
人の目も気にしていたと思います。
では、なぜ今は平気なのか。
たぶん、叩かれすぎたからです。
人は叩かれすぎると、少し別の生き物になります。
いい意味で。
たぶん。
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1万件ぐらい叩かれると、コメント欄が天気に見えてくる。
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一番大きかったのは、2011年頃です。
まだ「YouTuber」という言葉も、今ほど一般的ではなかった頃。
僕は、とある下ネタ投稿をしました。
すると、たぶん累計で1万件ぐらいの誹謗中傷コメントが来ました。
1万件です。
コメント欄というより、言葉の土石流です。
最初に感じたのは、悲しみというより驚きでした。
「え、人ってこんなに怒れるの?」
「知らない人が、こんなに僕に向かって言葉を投げられるの?」
という感じです。
もちろん、気分が良かったわけではありません。
嬉しいわけがない。
ムカつくコメントもありました。
ひどい言葉もありました。
「そこまで言う?」というものもありました。
でも、数が多すぎると、だんだん分かってきます。
全部をまともに受け止めていたら、こっちの命が足りない。
心が足りない。
時間も足りない。
1万件の悪口を1万件ぶん真正面から受け取っていたら、人生が誹謗中傷の仕分け作業で終わります。
それは嫌です。
僕はまだ遊びたい。
まだやりたいことがある。
まだ寿司も食べたい。
まだ人にも会いたい。
知らない人の怒りを全部抱えていたら、人生の容量が足りません。
だから少しずつ、距離を取るようになりました。
コメントを見る。
反応を見る。
でも、自分の中心には入れない。
これは雨だ。
これは風だ。
これは台風だ。
今日はコメント欄に低気圧が来ている。
そう考えるようになりました。
雨なら傘を差す。
風なら少し身を縮める。
台風なら窓を閉める。
そして、過ぎたらまた外に出る。
他人の反応は天気みたいなものです。
空模様を気にするのはいい。
でも、天気のせいで一生家から出ないのは、もったいない。
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他人の目では、直接死なない。
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かなり乱暴に聞こえるかもしれません。
でも、僕にとっては大事な感覚です。
他人の目や悪口で、直接死ぬことはない。
もちろん、言葉で傷つくことはあります。
悪口は嫌です。
誹謗中傷も嫌です。
人から変に見られるのも、気持ちのいいものではありません。
そこを軽く見ているわけではありません。
でも、物理的な危険とは違います。
刃物で心臓を刺されたら、おそらく死にます。
殴られたら痛い。
骨が折れたら、気合いでは戻りません。
暴力は本当に怖い。
これは「考え方を変えれば大丈夫」という話ではありません。
実際に痛い。
実際に壊れる。
実際に命に関わる。
一方で、他人の言葉や視線は、自分の受け取り方で意味が変わります。
相手がどう見るかは、相手の自由です。
でも、それを自分の人生の中心に置くかどうかは、自分で決められます。
ここを分けるようになってから、かなり楽になりました。
悪口を言われた。
だから何だ。
嫌われた。
だから何だ。
変な目で見られた。
だから何だ。
もちろん、一瞬は揺れます。
でも、そこで人生のハンドルまで渡す必要はありません。
相手が5秒で書いた言葉に、こっちが5日悩む。
かなり割に合いません。
向こうはもう忘れてラーメンを食べているかもしれません。
こっちはまだ風呂場で反省会をしている。
これは損です。
かなり損です。
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批判は、毒キノコ鍋だと思えばいい。
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誹謗中傷や批判を、全部ありがたがる必要はありません。
そんな聖人みたいなことはしなくていい。
僕も、ひどいコメントを見て、
「貴重なご意見ありがとうございます」
と毎回心から思っているわけではありません。
思えません。
普通に、
「うるさいな」
と思うこともあります。
人間なので。
ただ、批判の中には情報が混じっていることがあります。
「世間はここを嫌がるのか」
「この表現はそう受け取られるのか」
「自分はそう見られているのか」
そういうデータとして見ることはできます。
つまり、批判は毒キノコ鍋みたいなものです。
全部食べたら危ない。
でも、観察する価値はある。
いや、毒キノコ鍋は普通に食べない方がいいです。
例えが少し危険でした。
でも言いたいのは、全部を心に入れる必要はないということです。
人格攻撃は捨てる。
事実と違うものは捨てる。
ただの悪意は捨てる。
使える情報だけ拾う。
それでいい。
批判をゼロにすることはできません。
でも、批判との距離感は変えられます。
これができるようになると、かなり楽になります。
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世界を見ると、人の目で止まるのが少し贅沢に見える。
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僕は英語を学んでいるので、外国人の方と話す機会があります。
そこで、日本で普通に暮らしているだけでは聞かないような話に出会うことがあります。
ある英会話の先生は言っていました。
「昨日、子どもが誘拐された」
でも、お金が必要だから、今日も英会話の先生をしている。
最初、意味が分かりませんでした。
昨日、子どもが誘拐された。
なのに、今、僕に英語を教えている。
そんなことがあるのか、と。
日本で会った外国人の方にも、家族が殺され、命の危険を感じて、生き残った家族と日本に逃げてきた人がいました。
今は清掃の仕事をしている。
その人は、普通に笑っていました。
でも、その背景にあるものは、僕が簡単に想像できるものではありません。
世界には、そういう現実があります。
今日の命。
家族の安全。
住む場所。
食べるもの。
明日の仕事。
そういうものが、毎日リアルにかかっている人たちがいる。
そういう話を聞くと、僕はどうしても思ってしまうんです。
人からどう見られるかで動けなくなるって、かなり贅沢な悩みなのかもしれない。
もちろん、悩んでいる本人にとっては苦しい。
そこを否定したいわけではありません。
人の目が怖い。
批判が怖い。
嫌われるのが怖い。
分かります。
僕も昔はありました。
でも、命の危険が目の前にある人は、そんなことを考えている余裕がない。
「この投稿、どう思われるかな」
「嫌われたらどうしよう」
「変な人だと思われたらどうしよう」
そう悩める時点で、実はかなり安全な場所にいるのかもしれない。
少なくとも、今すぐ誰かに襲われるわけではない。
家族を守るために国を逃げなければいけないわけでもない。
今日食べるものがなくて、どうにもならないわけでもない。
もちろん、日本にも苦しい人はたくさんいます。
僕自身も、人生いろいろありました。
でも、それでも今こうして文章を書き、人の目について悩める環境にいる。
これは、かなり恵まれていることなのだと思います。
だから僕は、人の目で止まりたくない。
せっかく悩める自由があるなら、動く方に使いたい。
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100年前なら、悩み方すら選べなかったかもしれない。
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今の日本にも不安はあります。
お金。
仕事。
老後。
人間関係。
将来。
いくらでもあります。
でも、少し時代を戻して考えると、今の自由はかなり大きいと思います。
100年前の日本だったら、僕は今みたいな生き方はできなかったかもしれません。
職業を自由に選ぶ。
発信する。
知らない人とつながる。
インターネットで人を集める。
自分の村を作る。
そんな選択肢は、ほとんどなかったはずです。
女性なら、もっと厳しかったと思います。
恋愛の自由。
結婚の自由。
働く自由。
自分の人生を自分で選ぶ自由。
今ほど当たり前ではなかった。
そう考えると、今の僕たちはかなり自由です。
もちろん、自由だから苦しいこともあります。
選べるから迷う。
発信できるから叩かれる。
つながれるから、他人の目も気になる。
でも、それでも選べる。
これは大きい。
せっかく選べる時代に生まれたのに、他人の目だけで自分の人生を狭くするのは、もったいない。
昔の人から見たら、
「そんなに自由があるのに、そこで止まるの?」
と言われるかもしれません。
いや、言われないかもしれません。
でも僕は、そう思ってしまいます。
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全員に好かれようとすると、文章が水になる。
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僕は、人生でやりたいことがたくさんあります。
サブスタ村を作りたい。
人と人をつなぎたい。
リアルで会える場を作りたい。
人生後半をもっと面白くしたい。
これは一人ではできません。
だから、共感してくれる人、応援してくれる人、一緒に進んでくれる人は大事です。
でも、全員の共感はいりません。
ここを間違えると、人生が苦しくなります。
全員に好かれようとすると、何もできなくなる。
全員に嫌われないように書くと、何も刺さらなくなる。
全員に配慮しすぎると、文章が水になります。
味がしなくなります。
たまにあります。
誰にも嫌われないようにした結果、誰の心にも残らない文章。
きれいだけど、何も起きない。
安全だけど、誰も動かない。
それなら、少しくらい嫌われても、自分が一緒に進みたい人に届いた方がいい。
僕はそう思っています。
今この記事を読んでいる人の中にも、僕に対してあまり良くない感情を持っている人がいるかもしれません。
いてもいいです。
それはその人の自由です。
でも、僕はその感情のために、自分の人生を止めるつもりはありません。
僕が大事にしたいのは、一緒に動ける人です。
面白がってくれる人です。
応援してくれる人です。
同じ方向を見られる人です。
そういう人たちと進めばいい。
全員を連れていく必要はありません。
というか、全員を連れていこうとしたら、たぶん出発できません。
バスの中で一生点呼して終わります。
「まだあの人が納得していない」
「この人も不満そう」
「この人にはどう見られるかな」
そんなことをやっていたら、目的地に着く前に人生が終わります。
だから、ある程度で出発する。
乗りたい人は乗ればいい。
乗りたくない人は、別のバスに乗ればいい。
僕は僕のバスを出します。
たまに道に迷います。
村長なのに迷います。
でも、出します。
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ダイヤモンドメンタルというより、高野豆腐メンタルかもしれない。
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「ダイヤモンドメンタル」という言葉は、少し強そうです。
何を言われても平気。
傷つかない。
泣かない。
折れない。
そういうイメージがあるかもしれません。
でも、僕の感覚は少し違います。
僕は泣きます。
普通に泣きます。
感動しても泣くし、悔しくても泣くし、人の優しさでも泣きそうになります。
なんなら、自分で記事を書きながら勝手に泣きそうになる時もあります。
自家発電型の涙です。
だから、メンタルが強いとは、感情がないことではないと思っています。
僕にとってのダイヤモンドメンタルは、
傷つかない心ではありません。
傷ついても、次の日また動ける心です。
泣いてもいい。
怖くてもいい。
恥ずかしくてもいい。
批判されて少し落ち込んでもいい。
ただ、そこで終わらない。
次の日また出す。
また書く。
また話す。
また人に会う。
また挑戦する。
これです。
メンタルを強くする方法は、たぶん場数です。
出す。
叩かれる。
また出す。
恥をかく。
また出す。
誤解される。
また出す。
笑われる。
また出す。
かなり雑な方法です。
でも効きます。
筋トレでいうと、フォームはさておき、とりあえず重いものを持たされる感じです。
最初はきつい。
でも、だんだん慣れる。
ダイヤモンドメンタルは、最初からダイヤモンドなのではありません。
たぶん、最初は豆腐です。
僕も豆腐でした。
今でも中身はわりと豆腐です。
ただ、何度も落とされ、焼かれ、煮られ、揚げられ、なぜか少し固くなった。
高野豆腐メンタルです。
ダイヤモンドと言いつつ、高野豆腐かもしれません。
でも、意外と強いです。
水で戻ればまた使えます。
僕はそれでいいと思っています。
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最後に:人生のハンドルを、他人に渡すな。
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僕は、他人の目がほとんど気にならなくなりました。
でも、それは最初から強かったからではありません。
臆病でした。
泣き虫でした。
今でも泣き虫です。
ただ、1万件ぐらい叩かれたり、失敗したり、笑われたり、誤解されたり、いろいろな人の人生に触れたりするうちに、少しずつ分かってきました。
他人の目で、直接死ぬわけではない。
批判は、使える部分だけ拾えばいい。
全員に好かれる必要はない。
世界には、人の目どころではない現実を生きている人がいる。
悩める自由があるなら、動ける自由もある。
そして何より、自分の人生を他人に預ける必要はない。
誰かがどう見るかは、誰かの自由です。
でも、それによって自分がどう生きるかまで決めさせる必要はありません。
僕は、共感してくれる人を大事にします。
応援してくれる人を大事にします。
一緒に動いてくれる人を大事にします。
面白がってくれる人を大事にします。
でも、全員を説得しようとは思いません。
全員に好かれようとも思いません。
そんなことをしていたら、出発できません。
バスの中で一生点呼して終わります。
だから、僕は僕のバスを出します。
乗りたい人は乗ればいい。
乗りたくない人は、別のバスに乗ればいい。
たまに道に迷います。
村長なのに迷います。
でも、出します。
折れない、気にならない、ダイヤモンドメンタルの作り方。
それは、何も感じない人間になることではありません。
泣かない人になることでもありません。
誰からも嫌われない人になることでもありません。
泣いても、怖くても、恥をかいても、自分の人生のハンドルを他人に渡さないこと。
たぶん、それだけです。
僕は今日も、誰かに変に思われるかもしれません。
誤解されるかもしれません。
嫌われるかもしれません。
でも、やりたいことがあります。
会いたい人がいます。
作りたい場所があります。
まだ人生を楽しみたいです。
だから出します。
書きます。
話します。
会いに行きます。
笑われても、叩かれても、泣いても、また戻ってきます。
ダイヤモンドというより、高野豆腐かもしれません。
でも、しぶとく戻ります。
それで十分です。
あなたも、もし人の目で止まっているなら、まず小さく一つ出してみてください。
投稿でも、コメントでも、誘いでも、挑戦でも、なんでもいい。
怖くてもいいです。
震えてもいいです。
一歩出したら、もう少し強くなります。
メンタルは、頭の中で強くなるものではなく、動いたあとに少しずつ育つものだと思っています。
人生のハンドルを、他人に渡さない。
その練習を、今日から少しずつやっていきましょう。
最後まで読んでいただき感謝です。感想付のリスタックをしていただいた方には、リスタックでお返しします。






一万回とは、かなり壮絶な経験されたのですね。
メンタル強いってかっこいいですよね!
見習います(''◇'')ゞ
💎💍💎欲しいです!!!!🤩💕